組子との出会い

私は長野県飯田市で生まれ、父と母は建具店を営んでいました。私は3人姉弟の長男ということもあり、父から「お前は長男だから建具店の後継ぎになれ」と言われ保育園のころから仕事を手伝っていました。家に帰っても「遊んでいる時間があるなら仕事を手伝え」と言われ、二人の姉弟が遊んでいるのに私だけ手伝いをする日々を送っていました。 小学校2年生頃までは手伝いが嫌々でしたが、3年生の頃には仕事で余った木材で船などを作り、作る喜びを知り、なにより木が好きになりました。 その頃、父が建具業界の旅行で全国建具展示会を見に行きました。帰ってくるなり「世の中にはすごい建具職人がいて、組子という細かい細工を作る人がいる。とにかく衝撃で夜の宴会も酔えなかった」と興奮気味に話をしてくれました。その後、毎晩のように酒を飲んでは「世の中にはすごい職人がいる。お前も井の中の蛙にならないようにしっかり仕事をしろ」と言われていました。そんなに毎晩言われても写真もビデオもないから組子のことはわからない、とにかく私も組子を見てみたいと父に頼み、小学4年生の時に学校を休んで展示会に連れて行ってもらいました。 全国建具展示会は、全国から当時160点ほどの建具が集まり、主は組子を装飾した建具が一堂に並びその中から最高賞の内閣総理大臣賞を始め数々の賞が与えられる、建具職人の聖地ともいえる大会です。 私は会場に入り今まで見たことのない素晴らしい組子建具を目にしました。その時あまりのすごさに「これって本当に人が作ったの?」と父に聞きました。 父には「そうだよ。お前も頑張れば作れるようになるかもしれないぞ」と言われ、見れば見るほど引き込まれ、感動と衝撃でその場に座り込んでしまいました。 それと同時に私はこの組子を作るために生まれてきたのだと直感で思いました。「作れるようになるかもではなく、絶対この全国建具展示会に出品できる組子職人になる」と父に話しました。 和歌山県からの帰りの車内で「明日から組子の勉強をする。中学を卒業したら高校に行かず家で組子の修業をして、10代で全国建具展示会に出品する。そして史上最年少で日本一の賞、内閣総理大臣賞を受賞する」と目標を決めました。

史上最年少 
日本一の組子職人への道

それからは学校から帰ると仕事の手伝いと、空いた時間で見様見真似で組子を作り、次の日の朝5時に起きて宿題をして学校に行く日々を、中学卒業まで続けました。毎年、全国建具展示会に連れて行ってもらい、今まで作ったことのない組子の写真を撮って製作方法を考える日々で、組子が好きすぎて学校の授業中もノートに『今日帰ってから作る組子の絵』を書いて、どのように作ったら上手に綺麗にできるだろうかと考えていました。 担任の先生には「僕は高校に行かず組子職人になる」と話をしてあったのですが、いざ2年生の後半の進路相談になった時、担任の先生が「そうはいっても今の時代、高校に行かなかったのでは将来結婚とかに影響する。建築関係の高校に推薦するから高校に行け」と言われました。私は「先生ありがとうございます。組子職人になるためにはこれからの3年間が僕にとってとても大事なのです。小さいころからの夢なので後悔したくないです。このまま進ませてください」とお願いし、中学卒業後、父の会社に就職しました。ようやく組子製作に集中できるようになり充実した日々を送っていましたが、半年程経ったある日父の会社が倒産するという全く思いもしなかった悲劇の日々が始まってしまいました。

運命のいたずら

平成2年、世の中はバブル景気で15歳の私は「倒産」という言葉も知らずとても戸惑いました。 さらに父は薬を飲み自殺を図り、一命は取り留めましたが、長期入院をすることになってしまいました。 当然仕掛り最中の仕事があり、お客様にご迷惑をかけてはいけないと思い、母と祖夫母にも手伝ってもらい必死で建具や桐ダンスを製作しました。昼間は借金の取り立ての人が来て母が泣きながら対応していて、帰り際には工場に入ってきて、親の借金は息子のお前が払えと怒鳴られ、とてもつらい日々でした。 最終的には裁判所が入り、機械も木材も差し押さえられ仕事はできなくなりました。 私はやむなく精密会社で働くことになり、家族もバラバラになってしまいました。半年ほどたって父が退院して迎えに来てくれましたが、その日父が「今夜、夜逃げをするからいるものだけ車に乗せろ」と言い、これからどうなってしまうのだろうと不安に思いながら夜逃げをしました。 今までと同じ木材に関する仕事であればと、以前仕事でお世話になった工務店に入り大工をすることになりました。 生まれ育った土地から離れ、いつ誰が来るかわからないからできるだけ質素な家に住まないといけないと言われ、市内で一番古い、家の中をネズミが駆け回るような月8,000円の家に住むことになりました。 工務店へ勤めましたが、夜逃げをしてきたことで足元を見られ今考えるととんでもない給料で働いていました。毎月月末まで一週間ほどになると食べるものがなくなり、スーパーで安売りされたカップラーメンを、できるだけふやかし量を増やして弟と分けて食べていました。月末に支払う家賃の8,000円を残すのがやっとの日々でした。 そんな生活を3年続けたある日、昔お世話になった材木店の社長様が家に来てくださり「親父は自分でしたことだから仕方がないけれど、息子たちには今の環境はひどすぎる。地元に戻れば色々言われるかもしれないが、息子たちのためにも地元に戻って俺が紹介する工務店に勤めた方がいい」と言って下さいました。 3年ぶりに地元飯田市に戻り、工務店に勤めることができ、すごくうれしかったのを思い出します。 工務店の社長様と初めてお話をしたとき「僕は長男なので家族の家を建てるのが今の目標です」と打ち明けたところ、社長様は「塩澤君はまだ18歳でお金を借りられないから、20歳までの2年間しっかり修業して、俺も協力するから自分で家を建てなさい」と言ってくださいました。その後2年間社長様が優先的に指導してくださり、大勢の方にご協力をいただき、念願だった自分たちが住む家を建てることができました。そして弟が木工の訓練校を卒業するタイミングで、父母と弟と私の4人で、工務店から請け負う形で独立し、塩澤班として一軒ごと大工造作をして家を建てていました。

組子に再挑戦

私が21歳の時、組子への思いが忘れられず、昼間は大工をしながら、夜は組子建具を製作し、全国建具展示会に挑戦しました。結果は4番目の賞でした。製作する時、6年のブランクがあったことと、力仕事の大工をしていたことで腕が荒れていて、細かなことができなくなっていました。中学生の頃にはできていたことができなくなっていることにとてもショックでした。全国建具展示会に出品するには大工をしながらでは無理で、組子に集中できる環境を整えない限りこれ以上はできないことを痛感しました。

幸せの兆し

祖母が「遠い親戚だけど、近くで理容店を始めたらしいから正信も行ってみたら」と話をしてくれ、よくよく話を聞くと、その遠い親戚は私の同級生の家で、同級生のお姉さんが理容店を始めたことを知りました。 早速、理容店を訪れ、中学生の頃の話で盛り上がり、帰り際にお姉さんが「妹が今、静岡県で看護師をしていて、地元に戻りたいって言っていたから話を聞いてあげて」と電話番号を教えてくれました。 久しぶりということもあり、緊張しながら同級生に電話をしたところ、彼女は突然の電話ですごく驚き、休みに飯田に帰ったら会おうと話をしました。 それから数か月後、彼女と夕飯を食べながら話をし、私たちが夜逃げをした時とても心配していたと話をしてくれ、お互い中学卒業後の出来事を話しました。彼女が飯田に戻ってきて付き合うようになり、1年後に結婚しました。 25歳の時、妻にも全国建具展示会を見てもらおうと思い、長女と3人で見に行きました。全国建具展示会を初めて見た妻は、凄い凄いと言いながら見てくれました。4年ぶりの全国建具展示会で私も久しぶりに血が騒ぎ、妻に熱弁していました。 数日後、妻と組子の話になり、私が「やっぱり組子はいいな。できることなら組子職人になりたいけれど、現実を考えれば子供もいるし、生活していかなければならないから、このまま大工をやっていくしかない」と話したところ「何言っているの、まだ組子への強い思いがあるのなら、昔からの夢なんだし組子やろうよ」と言ってくれました。中学生のころ授業中ノートに組子の絵を描いている私を、隣の席で見ていたのが妻でした。「でもそんなことしたら、組子の仕事が今すぐあるわけでもないし、生活とかすごく苦労をかけることになるよ」と私が言うと「今、大工をやっていたって将来のことはわからないし、自分が組子をやりたい気持ちがあればどんな苦労だって乗り越えられるし、あなたがやりたいことで苦労するなら私も一緒に頑張るから」と言ってくれました。 史上最年少での受賞を考えるとあと2年しかない、明日から始めようと話し、次の日、父に「今まで大工をやってきたけれど、やっぱり組子職人になりたいから、塩澤班は代表を父に譲って自分は今日から組子職人になる」と伝えました。

大工から組子職人へ

まずは工場を建てなくてはと思い銀行に行き、工場建築費用の200万円を貸していただき、家の隣にある畑の地主さんに「工場を建てたいので土地を貸していただけませんか?」とお願いしたところ「いいよ。畑に今あるネギを抜いて持ってきてくれれば好きに使いな」とおっしゃってくれました。 材木店から建築材木を買い、夏の暑い中、外で桁や柱を手加工して自分で工場を建てました。そうして事業者名を塩澤工芸と決めて、組子中心の仕事を始めました。 始めて一年くらいは組子衝立や組子屏風、組子座卓などを製作しては、軽トラックに載せて見知らぬお宅に伺い営業していました。もちろんお客様も警戒していて門前払いされてしまうことが多く、販売することの難しさを痛感しました。 そのころ長男が生まれ出産費用を工面しないと退院できないと思い、必死に営業しました。 ようやくお客様に恵まれ「こんなに綺麗な組子ならぜひ欲しい」と購入していただき、私は嬉しさとお客様への感謝の気持ちで泣いてしまいました。

運命の出会い

組子を始め2年目に思いもよらない出会いがありました。 お世話になっていた工務店の仕事で組子欄間や書院障子を作らせていただいたお客様が、「組子は知っていたけれどこんなに良いものならお座敷の間仕切建具4本の夏障子を組子で作ってもらえないか」とご依頼をくださいました。 私はいくつかのデザインを持参してお客様にご覧いただきデザインを決めていただきました。 その時お客様から「塩澤君は以前大工をしていたと聞いたけれど、なぜ組子を始めたのですか?」と聞かれ、お客様ご夫妻に今までのことや組子に対する夢や思いをお話しさせていただきました。 するとご主人様が「塩澤君の思いはよくわかった。塩澤君を応援したいから、さっき頼んだ間仕切戸を、内閣総理大臣賞を目指して全国建具展示会に出品してみては」とおっしゃってくださいました。 私は「内閣総理大臣賞を目指してとなるともっと高度な組子でないと受賞は難しくて、デザインから変えないといけないことになってしまうのですが」とお話ししたところご主人様が「そういうことならお金のことは心配しなくていいから精一杯の組子建具を作って出品しなさい」とおっしゃってくださいました。 改めてデザインを構成する中で奥様が「夏障子だから涼しげな川などをイメージしてみたら」とご提案してくださり、近くの渓流に行き、5種類の下図を描きました。その下図の中からデザインを決めていただき、最終的に地元の日本画家の先生にお願いして構成のご指導を受け、元図を完成させることができました。 建具4本分横5メートル高さ2メートルの組子建具となると製作日数もかなりかかるため、事業を始めて一年足らずの私には、お客様がいらしていただけなければ到底できることではありません。 長年全国建具展示会を見る中で、自分だったらこう作りたいという思いが蓄積されて、その全てを出し全身全霊をかけて製作できる機会をいただけたことに本当に感謝しました。 組子の技術としては、今までにない地組の細かさで、その細かさに合わせて組子の部材も全て一ミリの厚さに削り、新しく曲げの技術を取り入れ製作しました。材種は神代杉や木曽桧など5種類の木を使い、部品数は細かくした分数が増え、当時10万個を超えればすごいと言われる中で、実に15万3千個という部品数で構成しました。 下図からだとおよそ10か月かかりようやく完成となり、全国建具展示会までにはまだ数か月あったのでお客様のお宅に納めさせていただきました。お客様が大変喜んで下さり「下図を見たとき組子でどこまで表現されるのかと楽しみにしていたけれど、ここまで描けるとは驚いた」とおっしゃってくださいました。

いよいよ、運命の全国建具展示会へ

その年は新潟県で全国建具展示会が開催され、全国の中心に近い新潟県ということもあり、出品数も多く、搬入されてくる組子建具は、何度も全国建具展示会に出品されている方々の素晴らしい組子建具ばかりでした。会場の設営の関係でようやく私の組子建具を搬入できるようになりましたが、最後の方だったこともあり、大先輩の方々の目の前で設営することになってしまいとても緊張しました。 無事設営が終わりお客様に「今設営が終わりました」とお電話をしたところ、「私も新潟まで見に行くから会場で会いましょう」と仰ってくださいました。 次の日は一日かけて審査が行われ、私は会場の近くで休んでいました。 夕方になり会場のトイレに行った時、隣にいた方が新潟県の会場関係者の方で、私の組子建具の設営を手伝ってくださった方でした。その方が「塩澤さんですよね。おめでとうございます」と言い、私が何のことだろうと戸惑っていると「そうか知らなかった?内閣総理大臣賞おめでとう」とおっしゃってくれました。私はびっくりしてその方に「ありがとうございます」と何度も頭を下げていました。 早速妻に電話をし、妻もとても喜んでくれて、2日後に子供たちを連れて会場に来ました。お客様にもお伝えしようと思ったのですが、お客様が「結果も含め会場に行くのが楽しみだ」と言われたのを思い出しお伝えするのをやめました。 次の日の朝、別会場で表彰式があり展示会場に戻ってくると、すでにお客様がおいでになり「たくさんの出品作品の中で、本当に内閣総理大臣賞を受賞できるとはすごく感動した」と涙を流しながら喜んで下さり、「この組子建具は家の家宝だから、夏だけといわず一年中はめておくよ」仰ってくださいました。 会場内をご案内した後、お客様が「俺も塩澤君の夢を応援できたことが嬉しいし、史上最年少で内閣総理大臣賞を受賞するという目標も達成できたことは本当にすごいことだよ」と仰ってくださいました。 私も「製作する前はどんな組子建具ができるのか分からない中、私を信用して製作する機会を与えていただき本当になんとお礼をお伝えすればいいのかわかりません。ありがとうございました」とお伝えしました。